桜井晴也×綾門優季対談『楽園という閉じられた国のなかで』(前半)

文藝 2013年 11月号 [雑誌]

文藝 2013年 11月号 [雑誌]

桜井晴也×綾門優季対談『楽園という閉じられた国のなかで』

インタビュー・テキスト:綾門優季、松山悠達
(2014/04/06)

「これは私がはじめて出会った、文章は粗く、雑で、欠点ばかりの、でも見たことのないものが立ちあらわれてくる新しい小説かもしれない。(角田光代)」など、選考委員の絶賛を受け、2013年、『世界泥棒』で第50回文藝賞を受賞した小説家・桜井晴也さん。『きれいごと、なきごと、ねごと、』の初日トークゲストに来ていただくついでに、舞台についてがっつり対談してみました。桜井さんと僕に共通している要素は「楽園系」であることでした。でも、「楽園系」って、いったい?(綾門)

桜井晴也(さくらい・はるや)
1985年埼玉県生まれ。2004年ごろから現代文学に触発されて小説を書きはじめ、同時に、映画、演劇、ダンス等の鑑賞を日常的に開始する。2013年、河出書房新社主催第50回文藝賞受賞、同年10月、受賞作「世界泥棒」発売。ブログ「首吊り芸人は首を吊らない。」(http://kizuki39.blog99.fc2.com/)。

綾門優季(あやと・ゆうき)
1991年生まれ、富山県出身。劇作家・演出家・Cui?主宰。日本大学芸術学部演劇学科在籍。こまばアゴラ演劇学校・無隣館演出部。早稲田短歌会所属。2011年、専属の俳優を持たない、プロデュース・ユニットとして「Cui?」を旗揚げ。2013年、『止まらない子供たちが轢かれてゆく』で第1回せんだい短編戯曲賞大賞を受賞。短歌や批評等、演劇外の活動も多岐にわたる。


舞台を観るようになったきっかけ


綾門:桜井さんは小説家ですが、かなり前からやられているブログ「首吊り芸人は首を吊らない。」では小説に限らず、映画や演劇、美術にも触れているし、けっこう広範囲に渡って論じていると思うんですね。しかも感想ブログというわけではなく、批評ブログのようになっている。すごい例えを使いまくる批評ブログみたいな。
桜井:「例え」というのは、ある作品について書くときに別の全然関係ない作品をぶつけて書くということでしょ。
綾門:そうです。そういうブログをずっと前からやられていて、映画のイベントで渡邉大輔さんとのトークがあったりとか、文学関連のイベントで高橋源一郎さんと対談をしたりされてますよね。でも、以前から舞台をかなりみられているのに、桜井さんの舞台に関しての話はおそらくいままで正式には一度もでていない。ですので、今回は舞台をメインにお聞きできればと思っています。もともと舞台を観るようになったきっかけは?
桜井:7、8年くらい前なんだけど大学の頃に文学とかを読み始めてて、読み始めると同時に映画や美術館に行くようになり、そのときに舞台もみにいくようになった。そのときにチェルフィッチュがすごいと、たしか高橋源一郎が言ってて、それで、チェルフィッチュの『フリータイム』を観て、なんだこんな面白いのかと思って。当時は前田司郎や本谷有希子岡田利規が文芸誌に出てくるようになってた時期なので、基本的にそういうところから知っていった。
綾門:たぶん僕も同じような経緯ですね。僕がいわゆる文学というものに関心を持ち始めたのが高校一年生くらいからで、年齢を考慮すると桜井さんがそういうふうになっていった時期とほぼ同じなんですよ。本谷有希子、前田司郎、岡田利規が小説をがんがん発表してて、ちょうど舞城王太郎佐藤友哉もちょくちょく文芸誌に載ってる頃。
桜井:やっぱその頃だよね。
綾門:桜井さんは現代詩にも造詣が深いですよね。その頃は三角みづ紀最果タヒ水無田気流、文月悠光みたいな新世代が登場してきて、あのとき詩の業界が一変したというか、なんだこんなことできるんだっていう感覚がわりと同時期に共有されていたと思っていて、僕もその頃に興味を持って意識的に読み始めた。だから本谷有希子に最初に触れたのも舞台ではなくて、小説なんですよ。本谷有希子は戯曲もまるで小説を読んでいるような気分で楽に読めるみたいなところがあって、それで『遭難、』や『幸せ最高ありがとうマジで!』に触れて、戯曲に全然触れたことなかったけど、小説みたいに楽しく読めるんだって気づいて。それで上京して、『甘え』を青山円形劇場で観たときに、いわゆる現代文学を楽しんで読んでいる延長線上で舞台も観れるなと思った。それでチェルフィッチュを観て、すげー、ってなって。だから、舞台に興味を持つ導入部は、僕と桜井さんは近いのかなあって。
桜井:近いのかなあ。一番最初に衝撃を受けたのはやっぱりチェルフィッチュ。言葉の使い方と体の動きというものの出てくる感覚が一致しているように見えるんですね。小説は言葉しかない。だから、言葉と体という別々のものが同じかたちで動いているということ、そういうものの見方がすごい面白かった。小説は、少なくとも僕のなかのベースは、村上春樹、一人称で語る場合は村上春樹があるんですね。で、村上春樹的というのはアメリカ的だったり、翻訳調だったり、基本的に日本語のだらだらした感じをだすのではなく、きちんと書くというのがあって、村上春樹みたいな人がどこまで文章とか体とかを崩せるのか、みたいなことはやってないと思うので、そういう全然違うところからきてるのがすごい面白かった。
綾門:岡田利規の小説はどうですか?
桜井:岡田利規の小説は、舞台とは違うよね。小説は視点の話。体の動き、物、風景とかをカメラ的な視点でどこからどうやってとらえるのか、という話。基本的に人がいるところをカメラから撮ってて、もしその人の心の動きとか、体の痛みとかを表現する場合は、カメラがそのまま体の内側までめりこんでいってしまっている印象を受ける。だから、舞台とは違うような気がする。
綾門:本谷有希子は、小説を読んでも戯曲を読んでもほぼ同じ感覚を受けますよね。
桜井:同じだよね。ネタは同じだから。


小説と戯曲の新人賞の違い


綾門:戯曲と小説では新人賞の捉え方が異なりますよね。戯曲は、いま売れてる人でも賞を取ってない人はざらにいます。戯曲の新人賞を取ってデビュー、とかでは全然ない。小説は、新人賞を取らないとそもそも本にならない。世に出ない。そういう意味で、死活問題のグレードが戯曲と小説で違うと思います。桜井さんは過去に新人賞にめちゃくちゃ応募してるじゃないですか。
桜井:してるしてる。
綾門:高橋源一郎さんとの対談を聞いてて衝撃的だったのは、新人賞に20回くらい応募してることでした。メフィスト賞にも応募してて。この作風でメフィスト賞は厳しいでしょ(笑)
桜井:そうだね、20回くらいは応募してるかな。メフィスト賞は、舞城王太郎佐藤友哉の影響で応募したい人はいっぱいいると思うんだよね。文学系の人でもメフィスト賞に応募してる人はいっぱいいるんじゃないかな。
綾門:新人賞を文藝賞に絞るまで、紆余曲折はあったんですか?
桜井:あった。最初はエンタメ書いてたから。今は消え去った賞とかにも出してた。Yahoo! JAPAN文学賞みたいな。
綾門:あったなー、そんなの。
桜井:当時はファウストが流行ってたから、ファウストに応募して、ファウストに入りきらないのはメフィストに応募して、みたいなことをやってた。で、だんだん読む本が文学よりになっていって、エンタメは読んでも一部をのぞいて全然面白くなくなっちゃったんで、あとはほぼ文藝メインになっていった。今回は文藝に二作品応募して、ひとつは一次で落ちて、『世界泥棒』だけ拾われたかたちになった。
綾門:『世界泥棒』が通ったから、もうひとつのほうは一次で落としたんじゃないですか?
桜井:いや、編集の人に訊いたら知らなかったって。二作品出してたんですか、って。
綾門:出来が全然違ったということなんですね?
桜井:ほんとに出来が全然違って、編集にいく前に下読みの人に落とされた。
綾門:『世界泥棒』がいくな、と思いませんでした?
桜井:受賞する前の年に、四次選考まで残ったやつがあるのね。四次のあとは最終選考だから、かなり良いところまでいってる。あれで四次までいくんだったら、今回の『世界泥棒』はいけるだろうと。
綾門:戯曲の新人賞って、それに比べると取る意味あるのかなっていうところもあるんですが、僕は取ってよかったなと思ってます。なぜかというと、20代前半でいわゆるプロの演劇の業界で認知される機会が少ないからです。もともと認知されている人がわざわざ新人賞を取る意味はあまりないと思いますが、自分はデビューして間もなかったから、あの受賞がきっかけで知ったっていう方も多かったんですね。せんだい短編戯曲賞は、本が必ず出るというふれこみでもあったので、受賞作の戯曲集をプロデューサーに直接渡せるので、売り込みやすくなりました。データでもらうのと本でもらうのは印象が違いますから。
桜井:せんだい短編戯曲賞は自分から送ったの?
綾門:平田オリザさんがやってる、演劇学校の無隣館ってところの生徒なんですけど、青年団の木元太郎さんがせんだい短編戯曲賞の選考委員に就任したから、演出部の人たちは応募してみれば、みたいな感じでメールが回ってきて、とりあえず応募しようみたいな流れになったんですね。それで応募しました。ふさわしい新人賞を血眼になって探していた、みたいなわけでは全然ないですね。実際、戯曲の新人賞に応募したのって、せんだい短編戯曲賞の一回だけだし、これまで。
桜井:戯曲は賞自体が少ないよね?
綾門:そうですね。若手で新人賞取ってるなかで幸福な例はロロの三浦直之さんかなあ。三浦さんは王子小劇場主催の新人戯曲賞のはじめての受賞者で、それを取ると王子小劇場で一回公演するのがタダになるんですね、劇場費がかからない。それで新人賞を取った戯曲を上演しようということになって、集まったメンバーがいまのロロの中心になってます。その公演がとても評判が良くて、劇団組んじゃえってなって、そのあとにロロが正式に発足していったんじゃなかったかな。そういういきさつがあるので、戯曲の新人賞が劇団をひとつ作ったともいえるんですけど…。あんまりないですね、こういうケース。キャリアが長いと、新人賞を取ったことで環境が激変することはないんじゃないかな。賞金ラッキー、くらいのことですね(笑)


文体に対する意識


綾門:小説で求められる文体と戯曲で求められる文体は違いますよね。最大の違いは、戯曲はしゃべらなきゃいけない点。
桜井:そうだよね。つらいよね。
綾門:つらい(笑)桜井さんと僕は、文体に関しては近いゾーンにいるなと思っていて、ふたりとも文体が「詩」っぽい。散文を書いていても、比喩や表現に「詩」の感触が残っているなと。僕のほうが全開だと思いますが。いわゆるフラットな散文とは違うなと思ってますし、『世界泥棒』も詩的文体が云々、絢爛豪華とか言われてるじゃないですか。そういう文体になっていった経緯をお聞かせください。ブログもだんだんと文体が変わっていったじゃないですか。ひらがな増えたな、とか。
桜井:やっぱり村上春樹の存在が大きい。女性作家はともかくとして、いまの男性作家が「僕」という一人称を使って小説を書きたいとなると、ほぼ手詰まりなんですよ。なにをどう書いても村上春樹っぽくなってる気がする。舞城王太郎や前田司郎も村上春樹っぽいところがある。そういう呪縛から逃れるためにはどうしたらいいのかとなると、自分はああいう文体にシフトしていった。村上春樹舞城王太郎は短文系なんですよ。舞城王太郎なんかは一文が長い作家だって思われてることがあるけど、そうじゃなくて、あの文章は「俺は何々して何々して何々して何々する」みたいな単発な意味を直線的につなげてるだけでしょ。だからいくら一つの文章が長くても本質的にそれは短文なんです。それがさっきちょっと言った村上春樹アメリカ系だとか翻訳調だとかそういうことで、でも日本の文学はフランスとかからきたものだから、本来はそうじゃなくて、もっと長文的なんだよね。プルーストとかジャン・ジュネとかは一文のなかで意味が揺れたり、視点が揺れたりするわけで、だから、村上春樹的な短文に対して、一文を長文的にどこまで延ばせるのかを考えると、あえて一文を長くしよう長くしようという試みをわざとやる。そうするとだんだん自分の書くペースもあがってくるし、気持ちも変わってくる。あとは堅くなりすぎるのが嫌だった。ひらがなを使うのは、それをどうこういうつもりはなくて。江國香織だってひらがなを使ってるし。見た目の柔らかさとか。嫌いな漢字は使いたくない。
綾門:漢字に好き嫌いあります?
桜井:あるある。見た目。
綾門:たとえば何が嫌いですか?
桜井:「事」とか。あえて漢字にしているように思えて、それが嫌で自分が使いたくないのは使わないようにしてる。でもあまりひらがなにするとおかしいので、そこはバランスを取りつつ。
綾門:漢字の好き嫌いは考えたこともなかったので、新鮮な話ですね。というのは、戯曲は結局しゃべるからどう書こうが関係ないんです。戯曲を応募するとか出版するとかになったら書き直しますが、上演するだけだったら、字面とか、見た目の美しさはほとんど気にしない。僕はまだ気にしてるほうですが。気にしないほうがいい気がする。
桜井:綾門くんは戯曲で「?」や「!」のあとにスペースを入れないのはどうして? 普通だったら、スペース空けるじゃん。小説とか。舞城王太郎は空けてないけど。
綾門:それは、意識的にと無意識的にが半々なんです。舞城王太郎がスペースを入れてないのは、文が全部つながっているようにみえる、饒舌にずっとしゃべっているように見えるという効果のためだと思うんですよ。スペースが入ると途切れるので。ずっとダーっとなっててほしい。僕もそれは同じで、掛け合いにつぐ掛け合いという感じで最後まで途切れなくいってほしくて。そこにスペース入れるとしっくりこないんですよ、見た目的に。せんだい短編戯曲賞に応募するとき、直してもよかったんですが、やっぱりどうしてもすわりがよくなくて、スペースなしで突っ走ろうと。受賞以降に書いた戯曲も全部そうなってますね。あと、僕は会話、一人台詞、もはや台詞ではない部分の三つの文体を適宜使い分けていますが、そういうのは小説ではなかなかないのかなと。シーンごとに文体をころころ変えるというのは。
桜井:ないね。綾門くんのは、だれの台詞でもないのが入ってるでしょ。でも、あれを役者は実際にしゃべってるでしょ。そういうのは絶対小説には入ってこないから、戯曲はずるいよね。
綾門:あれが戯曲として認められたのも、戯曲賞を取ってよかったと思えることのひとつですね。それまでは、戯曲ではないテキストを使って無理矢理に演劇してる人っていわれてたり(笑)自分は戯曲だよって主張してたんですが。戯曲賞を取って、みんなが戯曲として認知してくれるようになったので、やりやすくなりました。でも、桜井さんも僕の舞台を見たときにブログに書いてましたよね、あれは脚本と呼べるのか、って。確かに、形式的に微妙なラインだとは思うんですよ。
桜井:微妙なラインだよね。あれは、人の動作を全部台詞で入れちゃってるでしょ。それは、どうなの? ありなの? あまり戯曲読まないからわかんないんだけど。
綾門:いわゆるト書きと呼ばれる部分が、ほとんど台詞に内包されていて、その台詞を役者が読んだときに、その動きにならざるを得ない、ということですよね?
桜井:そうそう。そういうのは、小説にもあるっちゃある気がするんだけど。一般的にはものすごい下手くそなものだよね。初心者がやるやり方でしょ。逆にそういうやり方をギャグの意味を込めてやってる人もいると思うんだけど、徹底してやってる人はあんまりいないよね。
綾門:普通はト書きが上手くなるとかですよね(笑)。受賞のときも、こんなにト書きがない戯曲はどうなの?って言った選考委員がいたらしく、もめたみたいです。なんですかね、あの下手くそさみたいなものが味になってるとも思うんですよ。あそこを整然とト書きにしちゃうと、きっちりしちゃう。今はあれを無理矢理に演劇にしてるからこそ出来てる作風だなって。僕も桜井さんと同じで舞城王太郎直撃世代で、舞城王太郎の影響が残ってると自覚するところもありますけど、自力で発明した部分もあると思っています。というのは、戯曲は上演されなければいけないから、最初から最後までガーッと畳み掛けてて、しかもその台詞のなかに動きが内包されてると、役者が必死になってくらいついていかなきゃいけない。台詞も超言いづらいし。台詞も無理に言って、動きも無理に台詞のスピードで変換していくという、クッソ疲れる戯曲。トラックの後部にひもでくくりつけて引きずるみたいな、西部劇で犯人が馬の尻に引かれてずるずるずるずるーみたいな状態を、一時間ぐらい続けないと上演できないようになっている。
桜井:それでも、『きれいごと。なきごと。ねごと。』とかは音楽が大きくて台詞が聞こえないじゃない。そこまでやらせといて聞こえないのかよ、って(笑)
綾門:桜井さんが初日のトークゲストにいらっしゃる、5月31日〜6月4日に上演する『きれいごと、なきごと、ねごと、』は二年前の舞台の改訂版再演なんですけど、音楽の大きさをどれぐらいにするのかもめてて。きこえないってお客さんに直接怒られたり(笑)あの戯曲で出来ることはもうちょっと突き詰めて考えたいですね。まだちょっと出来ることがありそうな気がしています。もともとは、僕は詩や小説に興味があったから、初めて戯曲を書いたときに無理矢理に書いた結果、あきらかに戯曲で使わない表現を使いまくってて、ずっと書いていったら上手くなるものだと思っていたら、まったく上手くならないままここまできて、作風になってしまったんです。
桜井:普通は綾門くんのような比喩は使わないよね。しかも戯曲のなかで比喩を使うと、その比喩に対して別の比喩で畳み掛けてくる、綾門くんの場合。そのやり方ないよなと誰がどう見ても思うわけで。最初の比喩もあり得ないんだけど、その次の比喩がもっとあり得ない。なんでそこにかぶせてくるのか(笑)
綾門:おまえら初対面なのにどうして比喩でツーカーなんだよ、って(笑)
桜井:そうそう(笑)。小説でもそうだけど、ベタな比喩はあまり使わないじゃない。比喩には二種類ある。ひとつは、村上春樹のようにそのものを的確に表すのではなく、そのものとは全然関係ないものをつなげる比喩。もうひとつは、読者に想像させるようなストレートな比喩。いまは、ストレートな比喩が使いづらくなってる。それを大仰にやってだめだから、皆あたりさわりのないとこでさらっと入れましょうみたいのが小説の書き方のスタンダードになってると思う。そのなかで、綾門くんの戯曲のひどさはすごいよね(笑)
綾門:笑っちゃうような比喩(笑)
桜井:シェイクスピアの時代かと思うよね。
綾門:「砂埃の奥に隠れていた巨大な蟻地獄が楽園を目指していた懲りない奴らをひとり残らず飲み込んでいった。」みたいなところですよね。
桜井:ああいうのはすごいなあ。
綾門:ああいうものを僕だけやってるかというと、他にないわけじゃなくて、近いなと思ったものがふたつあって。ひとつめは、村上春樹の『ノルウェイの森』の映画版。トラン・アン・ユン監督の映画ですね。日本人監督だったら比喩をそのまま口に出すわけないってわかるから台詞を変えるだろうけど、外国人監督だから日本人がどれくらいのことをしゃべるのがスタンダードかというのをわかってなかったからこそ、普通の雑談してるのに「南極の氷が」とか「ペンギンがもし○○だったら」とかを松山ケンイチが比喩を真顔で言ってて、シリアスなシーンなのに大爆笑しちゃって。『ノルウェイの森』を小説で読んだときは別に笑うところはなかったんですが、映画で観るとめちゃくちゃ面白いんですよ。「この髪型似合ってる?」「ちょっと横を向いて。うん、似合ってるよ」とかをマジでやってると滑稽さがやばいんですよ。でも、僕の比喩はあれに近いなと思っていて。マジでやるとマジで恥ずかしいぞっていう。もうひとつは、ロロの三浦直之さんに教えてもらった映画監督・山戸結希さんの作品。僕は『おとぎ話みたい』と『5つ数えれば君の夢』を観てるんです。山戸さんは哲学に興味があるらしくて、レヴィナスとかをすごい読んでるんですけど、女子高生がレヴィナスを朗読してるような台詞なんですよ。『5つ数えれば君の夢』は、女子高生が学園祭の前日に喧嘩になってるシーンで、哲学的問答してるみたいな、女子高生の思考回路じゃねーだろみたいな会話が後半ずっと続く映画。哲学的な禅問答みたいなことをいってるのに、出来事自体は文化祭前日から文化祭のミスコンの本番までのあいだに、女子高生のグループの中でいじめが行われてるっていうこの乖離。いじめられてた女子高生がプールに飛び込んでびしょ濡れなままミスコンの会場でものすごい勢いで踊るという驚愕の展開になるんですけど、そのあいだもずーっと哲学的な自問自答が行われてるんです。なにこれ? みたいな映画なんです。女子高生はしかも結構棒立ちで喋ってる。それの台詞の効果が僕の戯曲に近いものがあると思ったんですよ。勝手に思い込んでるだけですけど。

(後半に続く)

http://d.hatena.ne.jp/ayaayattottotto/20140423/1398261265