桜井晴也×綾門優季対談『楽園という閉じられた国のなかで』(後半)


口語と文語


桜井:台詞が自然かどうかは関係ないのかな?
綾門:そうですね。まず言わない比喩をあえてめちゃめちゃべらべらしゃべる効果って、もっと考えてみるといいかもしれません。僕は現代口語演劇のムーヴメントに乗り損ねたんですよ。2005年以降から岡田利規平田オリザが最強で、このふたりが現代口語で出来ることをものすごい勢いで整えたんです。鳥公園『緑子の部屋』とかもチェルフィッチュがやっていたことの発展形ですし、ままごとの柴幸男やサンプルの松井周も青年団から出てきて、現代口語演劇のフォーマットを更新している。いま、現代口語全盛期のムーヴメントがここ十年くらい大きな流れとして訪れていることはわかっているんですけど、いかんせん自分の口語がすごい下手だから、ムーヴメントに全然乗れない。
桜井:致命的だ(笑)
綾門:劇団旗揚げの頃は、すこし口語だったんですよ。そうすると、ただの下手くそな演劇になっちゃうんですね。だから、もう振り切ろうと。中途半端に下手くそだったので、下手くそな方向に思いっきり振り切って今の作風になったんですけど。現代口語演劇のムーヴメントに乗りたかったけど転覆したので(笑)じゃあ、文語の台詞をいまさらやるということに、どれだけの可能性があるかっていうことを、考えてる人がたぶん今あんまりいないから、僕がやろうかな、という感じです。
桜井:貧乏くじだけど。
綾門:大通りは雪かきがめっちゃされてるから凄く通りやすいんだけど、この狭い路地の雪かきは誰もしてないから、僕がやります、と。平田オリザさんと面接する機会があったんですけど。そこで、唐十郎の時代に生まれてたらアングラでいけたのにねって言われて。僕も心からそう思う。小説は大量の比喩が入ってもまだ大丈夫ですけど、戯曲はどんどん厳しくなってますね。わざとらしさって基本的にダサいから。
桜井:戯曲は、口語が流行ってるからっていうことでしょ? 口語が流行ってるから全然入り込めないわけでしょ? 俺が見始めた頃はチェルフィッチュが流行ってた頃だから、基本的に口語で当たり前みたいなイメージがある。商業演劇とかみにいっても、たとえばベケットの再演とかになると台詞が口語じゃないじゃん。それは観てて全然面白くない。
綾門:観てて面白くないタイプの文語ですからね。
桜井:なんでなんだろうね。ベケットベケットですごいわけで、戯曲を読んでも面白いわけなんだから。
綾門:発語の仕方でもっと良くなるはずなのに、そこを誰も考えていないまま上演してるケースがあると思う。
桜井:そうだよね。
綾門:岡田利規平田オリザがやったように、ナチュラルさへの解像度がずば抜けて高いと、それはよりぐっとくるわけですよ。ベケットを上演するにしても、変な台詞のほうに思い切り振っちゃうか、翻訳を頑張るかすればいいのに。
桜井:そうだよね、もう一回やるなら翻訳し直さなきゃいけないよね。
綾門:シェイクスピアを普通にやるよりは、いっそのこと坪内逍遥訳でやれば面白いかもしれない。そこまでくると逆に。小劇場でいまから出てくる若手は、平田オリザ岡田利規の薫陶をあたりまえのように受けてますよね。
桜井:そうだよね。
綾門:文語は自分で使ってて思うんですが、戯曲の文語の歴史は一回途絶えたんですよ、たぶん。ぜんぜん資料がないんです。野田秀樹とか八十年代演劇のあたりで途絶えた。平田オリザが出てきた九十年代から、たとえば岸田戯曲賞を取っている作家でばりばり文語、っていうのはぐっと少なくなります。八十年代まで戻るといるんですけど。松尾スズキはどちらかというと文語よりだと思うんだけどだいぶ世代も上で、だからいま五十代の人だったらナチュラルにいるんだけど、三十代・四十代とかが全然いなくて。いまあらためて文語でやる、というときに攻め方が違うなという意味では、まだやれることはあるなと思いますね。
桜井:小説は、文語が生き残ってる。地の文を書くやり方は明治から変わってない。会話文にも残ってる。会話は絶対にしゃべらないような文体で書かれてるわけだし。村上春樹もそうだし。鹿島田真希はロシアの翻訳をそのままやってるし。翻訳文体という意識が日本の文学は非常に強いから、そういう意味では全然残っている。初期の中村文則の「銃」や『遮光』は地の文章が何十年も前みたいに固い近代文学的な書き方をしてるのに、会話は「〜じゃん」とか若者っぽい書き方をしてる。
綾門:西村賢太もそうですね。すごい古くさいのに女性の口調だけいまどき。そういう意味では、鹿島田真希の作品は戯曲の文体を考えるうえでとても参考になるんですね。鹿島田真希は翻訳調と呼ばれるものを、現代の日本語にきれいに落とし込んだらどうなるかっていうことをやっているかたですよね。だから読んでると翻訳調の日本語の可能性、比喩の使い方や会話とか、かなり思考がクリアになる。一時期、参考資料として鹿島田真希をすごい読んでましたね。僕の戯曲は、普通の戯曲を読んでても参考にならないことが多いので。そもそも起承転結の付け方が違う。当たり前ですけど、普通の戯曲は会話で成立している。せいぜい一人台詞があるくらい。会話だけで起承転結つけるのと、戯曲の一部に会話もあるっていう感じだと、事件の起こし方も変わってくる。平田オリザの戯曲までいくと、素質が離れすぎていて、反面教師みたいな感じで参考になりますが。反面教師っていってもあれですよ、面白いですよ。


楽園系


綾門:『エデン瞬殺』は初めての短編集ですが、短編は攻め方が違いましたね。『エデン瞬殺』はファウストが流行ってた頃に文学読み始めた感じが露骨に出ちゃった。
桜井:めっちゃ出てる(笑)。セカイ系だよね。閉じた世界で、ひとつのシチュエーションで、最初から極限状態のなかにいて、ちょっとのきっかけで爆発していく。
綾門:僕の作品は毎回だいたいそんな感じですけどね。
桜井:『エデン瞬殺』は短編だからそれがわかりやすくて。一時期の西尾維新佐藤友哉が書いてたミステリーの流れだよね。
綾門:ミステリーではないですけどね。
桜井:ミステリー「っぽい」よね。
綾門:何を書いても閉鎖的なものを扱う傾向があって。楽園というのがそれにフィットした。自分たちの領域を犯さないでくれという気持ちがすごく強い。ハードピュア。ピュアすぎて息苦しい世界観があり、『エデン瞬殺』が楽園をモチーフにした作品だったから、その世界観がより濃厚になった。ピュアさは不純物がなくて、きわまればきわまるほど生きづらくなっていく。あそこに出てくる人たちは極端にピュアで、ちょっとしたことで爆発しやすい状況に置かれている。『エデン瞬殺』に限らず、僕の作品の特徴は、はじめから極限の危機という設定ですよね。ラスト五分くらいの危機が始まった段階で訪れている。普通の戯曲が1%から順に100%まで物語を追っていくとしたら、僕の戯曲は95%まで終わったあとの残り5%でやってるみたいな。それはやはり、現実の写し絵でありたいと思ってるから。今の社会の空気感は、普段からずっと危機というか、盛り上がったり下がったりしないで、どよーんと澱んでヒリヒリと危機がすぐ横にあるんだけど、つかむことはできないまま、毎日をやり過ごしている感じだと思うんですよ。なので、最初から追いつめられている人がなにかのきっかけではじけてキレて、愚痴や不満がダダ漏れになるのは、むしろ自然だと思っている。自然な起承転結を紡ぐほうが不自然だと。
桜井:まあ、そうだよね。
綾門:そういうふうに今の社会を捉えたいという思想が『エデン瞬殺』ではわりとクリアになってましたよね。設定はおかしいんですよ、ちょっとおばあちゃん頭がおかしすぎる、とか。でも、そういう極端な設定でしか出てこない今の社会の写し絵もあるなって。
桜井:残り5%から開始すると言ってたけど、それは長編と短編で変えるの? 良くいえば、『エデン瞬殺』は短編っぽい劇になってたよね。ちゃんと長編の最後の部分だけをやりましたという形であっても、そのなかでも短編っぽい短編になってたなと思う。
綾門:長編を書くときは時間軸を操作したりとか、時間の流れを遅くしたりとかして、残り5%をやるので戦略が必要なんですけど。短編はその5%をきっかりワンアイデアで駆け抜けられる感じですね。短編は展開展開展開展開ってだけで作れる。だれたりとか、テーマが複雑になりすぎたりはしない。テーマが複雑になっていくことはよくないことだと思ってるんです。伏線が複雑になっていくことはいいですが。ある一点がクリアにわかってほしい欲望がすごく強いんですよ。その作品のコアにあるもの。どんどん展開していくというよりは、あるコアをぐるぐるめぐりたい。という観点では、短編のほうがやりやすい。演劇は短編を観る機会がないので、もっとあってもいいなとは思うんですけど。ショーケースとかぐらいでしょ。短編と長編じゃ使う技術が違いますし。小説家は短編も長編も書けてこそ、みたいな話を村上春樹が以前言っていたと思うんですけど、劇作家は放っておくとほぼ同じ長さのものをずっと書いていくことになっちゃうんですよ。
桜井:長くても2時間。
綾門:短くて1時間。ただの2倍じゃないですか。だから範囲としてはすごい狭いんですよ。小説は、奥泉光のようにいつになったら終わるんだろうみたいな長い作品もあれば、すごい短い作品もある。戯曲はほぼ同じ長さに整えられてしまう。だから、色んな長さのものを観てみたいなとは思いますね。桜井さんの小説『世界泥棒』も一種の楽園ですよね、閉じられた国のなかにほぼ同じ人たちしか出てこない。
桜井:閉じられたところは、凄く難しいと思ってる。山崎ナオコーラの『人のセックスを笑うな』は、凄く狭い話。でも小説を読むとこれがセカイ系か、西尾維新か、閉じられた楽園の話かというと、そういう感じはしなくて。で、井口奈己の映画版を観たら4人しかでてこない。他に誰かいるだろう、なんでそんなに狭い環境のなかで思い悩んでるだと思って。映画自体は面白くてすごい好きなんだけど、そういうのが出てきちゃって。で、逆に仮に大人数出して大きな話を出すというのは、どういうことなんだろうな、と思って。それに対して良いサンプルがない。ジョージ・オーウェルの『1984』からそうだけど、楽園系は必ず共産主義的な楽園だよーって言ってて、個々の人たちは窒息しそうな状態にいるのが一種のテンプレになっている。そこで爆発する、みたいなパターンがある。エンタメとして作るなら極端な状況に置いたりしてやるんだけど、純文学寄りの人はそれを普通の日常で全部やってる。だから、楽園系って、全部が楽園系ともいえる。濱口竜介の『親密さ』も一種の楽園系じゃん。韓国と北朝鮮が戦争してみたいなストーリーがあるんだけど、前半はほぼ稽古場で後半はほぼ本番っていう。戦争というのが外部からの圧迫感、プレッシャー的なものとして世界に完璧に入ってこない。入ってきたとしてもそれが持ってる空気感だけが訪れて、そういう状況下で大切なことを語れるだろうかっていうことをものすごくピュアにやってる。だから、綾門くんがやってるやつも、『親密さ』で4時間でやってるところを凄く短くやってる感じだよね。
綾門:濱口竜介の他の長編や短編を観ても、ある種の閉じられた感はあると思っていて、それは濱口竜介がどうこうというよりは、ここ5年くらいで閉じた作品が目立ってきているから、時代の流れとも関係あるかと。濱口竜介は特に顕著だとは思うんですけど。不気味なものが遠くにあるんだけど、それを直接目撃できない。

※この対談のロング・バージョンは、『スピラレ』vol.2に掲載されます。

http://spirale-gypsum.blogspot.jp/

※この対談で言及された劇団、演劇作品についての桜井晴也さんのコメントは、以下で読めます。

チェルフィッチュ『フリータイム』http://kizuki39.blog99.fc2.com/blog-entry-192.html
劇団、本谷有希子『甘え』http://kizuki39.blog99.fc2.com/blog-entry-828.html
ロロ『ミーツ』http://kizuki39.blog99.fc2.com/blog-entry-1262.html
Cui?『きれいごと。なきごと。ねごと。』http://kizuki39.blog99.fc2.com/blog-entry-1013.html
青年団若手公演+こまばアゴラ演劇学校“無隣館”修了公演『S高原から』http://kizuki39.blog99.fc2.com/blog-entry-1300.html
鳥公園『緑子の部屋』http://kizuki39.blog99.fc2.com/blog-entry-1302.html
Cui?×お布団『エデン瞬殺』http://kizuki39.blog99.fc2.com/blog-entry-1268.html